夜想葬曲

詩や短歌、想う事など

【小説】芍薬の花嫁

 その日は生憎の雨で、弔問客のひそやかな会話が葬儀場に押し込められていた。
 学生時代から付き合いのある友人の、そのお嬢さんが亡くなったと連絡を受けたのが一昨日の事。
 おとぎ話と空想と、窓辺の庭と使用人だけが友達だったお嬢さんは、病気がちの体故に一度として屋敷の外へ出る事無くその生涯を終えてしまった。

「お嬢さん、お幾つだったかしら」
「うちの子と同い年よ」
「ああ、可哀想に……」

 果たして「可哀想」だったのかどうか、と私に問われれば否定する。友人に会いにお邪魔した際に何度か会って話をした事があるが、決して自分の身体に悲観せず明るく幼い年齢にしては大人びた所がある少女で、それでいて
「いつか王子様が私を迎えに来てくれるの」
などと空想を無邪気に私に話してくれるような子だった。
 本人がどう思っていたかはともかく、私の記憶の中の彼女は「可哀想」という言葉がどうしても似合わないのだ。
 そんな健気に自分の生涯を生きた気丈な娘の遺影を、親である友人夫婦はぼんやり眺めたり時折床を見つめて肩を震わせ嗚咽を漏らしていた。
 焼香の列も少女の生涯の長さに比例するように長くは無かったために終わりが見えているが、列の最後の夫人から少し遅れて若い男が入口を跨いだのに気が付いた。
 その時、いきなり、外から聞こえていた雨音、経の声、弔問客の声、全ての音が消えたように水を打って静まり返った。
 仕立ての良さそうな黒いスーツを身にまとい、黒い髪を後ろに束ねたその人は厳かに、悠然と足を進めてくる。平日の昼下がりにコーヒーを飲みながら眺めた昼寝中の猫の白さのように甘い顔の整った男だ。
 友人夫婦や使用人、周りの人間は不思議そうな顔で囁き合っていて、その男が誰なのか知っている者はいないようだった。
 その男は遺族席の前まで来ると、言葉は無く深々とゆっくり頭を友人夫婦に下げた。
 そして祭壇の、棺の前に歩み寄る。
 不思議な事に誰もその男を止めようとする者はいなかった。
 「手を出してはいけない」
と誰もが思ったのだろう。
 それだけその男の周りだけ空間が切り取られたような気がする程の気品のような神聖な気配が漂っていた。
 少女の穏やかな、もしかしたら死化粧により生前より健やかにさえ思える寝顔を見下ろす男の長い睫毛は、まるで甘い花の蜜を吸った夜露を乗せて恋人を見つめるかのように伏せて黒い瞳に影を落としていて、指先で少女の輪郭を確かめるように撫でる動作にさえ色気を感じる。
 男は数秒そうして少女を見つめた後、ゆっくりと身を屈めて、恋人にするようにその唇に口付けをした。
 その時に彼の手首に巻かれていた桃色のリボンのような物が、嫌に印象的に脳に焼き付いた。

「ああっ!」

 私の隣に座っていた、少女の世話を仰せつかっていた使用人もそのリボンに気が付いたらしく、突然声をあげてその後ハンカチに顔を埋めて泣き始めた。
 男の行動に流石に驚いた友人は、思わず立ち上がったが直前まで全身の力が抜けて憔悴していたために上手く立ち上がれず床に崩れ落ちる。
 体を起こした男は優しく微笑み、少女に何か言葉をかけているがこちらには聞こえない。
 やがて男は体の向きを変えて床に座り込んでいる友人にもう1度深々と頭を下げた。
 その後、瞬きもしないうちに男は姿を消した。
 まるで夢を見ていたかのようにその男が居た影も形も何もかもが何処にも存在しなかった。
 同時に、時間が動き出したように雨の音が聞こえてきた。
──あれは死神だ。
──悪い妖だ。
──ああ、可哀想に。
と噂をする声も聞こえてきた。
 その後、帰宅する前に友人の家へ荷物を運ぶなど手伝いをしていると、私の隣で泣いていた件の使用人が骨になった少女の部屋から飛び出して慌てて私を引き止めた。
 彼女に連れられて部屋へ向かうと、置き去りにされてしまった絵本や人形にお気に入りだと言っていたワンピース達が少女が生きていた時のまま主の帰りを待っていた。
 彼女が窓の外を震える指で示す。

「あれは、烏ですか」

 窓から庭の芍薬越しに見える塀の上に、一羽の烏が雨に打たれながらじっとこちらを見ている。

「雛の時に巣から落ちてその芍薬の木の下で死にかけていたのをお嬢様が拾い、世話をしていた烏です」
「よくわかりますね、見たところ野生ですが」
「あれを見てください」

 彼女は、泣き腫らした目から涙を零さないように口元に力を入れて言った。

「アッ!」

 思わず私は声を上げた。
 烏の足に、桃色のリボンが巻かれていたのだ。
 見覚えのある、忘れようもない、先程見たリボンだ。

「お嬢様はあの子を大変可愛がりよく世話をされておりました。餌をやったり本を読み聞かせたり、あの子を王子様と見立てておままごとをした事も……。きっとお嬢様にとってはお友達で、あるいは恋人だったのかもしれません」

 彼女はクスリと思い出し笑いを漏らして続けた。

「丈夫に育ち、いざ野生に返すとなるとお嬢様は大変嫌がって悲しみまして……あの子には申し訳なかったのですが、せめてもの贈り物をと言う事でお嬢様が足にあのリボンを結んだのです。烏は賢い鳥ですから、嫌なら外せるだろうと思いまして」
「きっと、相手も嬉しかったのでしょうね」
「ええ、今まで一度も姿を見せなかったのですけど……」

 彼女は窓を開けた。

「もう大丈夫ですよ。私にまで気を使って下さってありがとうございます。お嬢様を待たせてはなりません、どうぞ行ってくださいませ」

 その彼女の言葉に烏は羽を広げて舞い上がった。

「お嬢様はお嬢様なりに、決して可哀想なお方ではなかったと思います」
「ええ、私もそう思っていたところです」

 雨は降り続いていたが、烏が飛び立った西の空は段々明るくなっているのが見えた。